いじめの問題を解決するために一人一人と向き合う
ある高校で永年、教えてきた先生からのご意見を頂戴しました。いじめの問題が起きたとき、どのように解決したのか、紹介したいと思います。
以下は、その先生からのお話です。
戦後、宗教と名のつくものはすべて公教育の場から消し去られました。
また団塊といわれる世代の教員の中には、共産主義の洗礼を受けた人たちが多く、教育の根底に、宗教的なものを疎んじ、唯物的で、社会への貢献を至上とする思想が入ってきました。
人間としての成熟より、進学に必要な知識を身につけることが目的化し、教育の根底が、どんどん空洞化しているような気がするんです。
その一例として、最近、「恩」を読めない生徒が増えています。
これは決して知力の問題ではなく、子供たちが「恩」という字を目にする機会が減ったことによるらしいのです。
確かに今、学校で、「恩」は見掛けぬ言葉となりました。
仏教では、
「恩を知らざるものは畜生よりも甚だし」
と経典にあるとおり、恩を知ることは、人間として最も大切なことと教えられます。
そういう教育は昔の日本にはあっても、今はありません。
いじめの問題に関してですが、やってはいけない、とは言えても、『それは悪なのだ』と断言できる教員や、保護者が極めて少ない現実があります。
まして悪因悪果、自因自果、自分の人生は自らの種まきでつくっていくのだと言える人は皆無に等しいと思います。
以前、受け持った高一のクラスでもいじめが起きました。
対象となったのは、ずばぬけて学力の高い女生徒で、彼女自身、周囲にうんざりしていたことから事件が起きました。
女子全員が彼女を徹底的に無視し始めたのです。
担任には分からぬよう自然にふるまってはいたのですが、私も教室の空気の変化に気づき、教室にいじめの問題が起きていると知りました。
この時は、女子全員を一人一人呼び出し、放課後に話をしました。
最初は、『皆仲良くやっています』などと言うのですが、『何もないわけないやろ。教室の空気が前と全然違うやろが!』と一喝すると、ポツリポツリ事情を話してくれました。
生徒たちが言うには、「あの子は私らを見下しているみたいだ」「皆と同じことせーへんかったら、私もいじめられる」と。
とにかく彼女たちの言い分をひととおり聞いたあと、できる限り善因善果、悪因悪果、自因自果と、因果の道理の話をしました。
善人づらはしたくないと、さもかっこよさそうに言う生徒もいましたが、『形をまねてるだけでも善は善。やらねば結果は絶対あらわれない』と自信を持って話をすると、スッキリした表情になったのが、今でも鮮やかに目に浮かびます。
昔から教えられていた仏教の教えを学ぶ機会が多かったから言えた言葉だったと思います。
いじめられていた本人にも同じ話をしたところ、一年の終わりごろには、すっかりクラスに溶け込み、放課後、彼女がクラスメートとともに、勉強している光景が見られるようになって、いじめの問題も解決しました。
善を勧め、悪を戒める。
教師ならだれでも指導することですが、問題はそれを、どれだけの信念で子供たちに断言できるかです。
善悪を断言できる仏教のようなバックボーンを学校側が排除してきたそのつけが、今の教育現場に現れていると思うんです。
貴重なお話をいただきました。この先生は、親鸞会という団体で浄土真宗の教えを永く学んでいるそうで、親鸞聖人に詳しい方でした。