いじめの問題について考えよう

いじめの問題と向き合うサイト

イジメと報い

Posted by きりり On 11月 - 1 - 2011

いじめの問題は、争いに勝ち続けるかぎり、自分の天下

のように思っているところがあると思います。

ところが、悪いことをすれば、悪い報いがくる

という仏教で昔から教えられている因果の道理からすれば、悪をやればやるほど、その報いがきたときに大変なことになります。

そもそも、蒔いた種が必ず生えるのですから、他人が見ている見ていないさえ関係ないのです。

人間の行為が運命を生み出す、という因果の道理こそ、若い人にゆおく伝えねばならないことだと思います。

中には、親鸞聖人の悪人正機を誤解して「よいことしなくてもいいのだ」とか「悪いことをするほうがいいのだ」とまでいう人も現れています。

この聞き違いの結果はてきめんで、今年の親鸞聖人750回忌では、700回忌のときと比べると、まことに淋しい状況です。

中には、親鸞聖人は確かに善で助かるとは教えておられないが、善をないがしろにされた方ではない、善を勧められた方だと教える親鸞会のような集まりもあり、親鸞会には、老若男女たくさんの人が750回忌法要に詰め掛けたようです。

この明暗はあまりにもクッキリしているので、もっと調べる価値があるかもしれません。

罪悪観とイジメ

Posted by きりり On 8月 - 6 - 2011

いじめを平気でする人は、罪悪観が欠如しているのかもしれません。

「なにが悪い?」という人には、単純な説明では解決できないことが多くあります。

また、悪いことをしても、悪い報いがこずに、それどころか、権力をもってよりよい状態になったと思い込まれたらやっかいです。

暴力で他人の上に立つことと、他人から尊敬され高い立場に着くのはまったく異なるのですが、区別がつかず、「やったもの勝ち」という浅い人生観では困ったものです。

小さい頃から、「やった行いは自分に返ってくる」というシンプルな真理をよく知らせておくことが大事でしょう。

いじめる側の問題・存在意義(4)

Posted by きりり On 7月 - 2 - 2011
いじめる人は、何かしらの不満、不安があるものです。
もし、人間として満ち足りた状態であるならば、わざわざいじめたりしないからです。
根本には、命の尊さが感じられるかどうか、というところまでいくでしょう。
浄土真宗親鸞会では伝統的な仏教の教えに基づいて、命の尊さを教えています。
聴聞が一番大事と言われていますが、聴もきく、聞もきく、仏教は修行するものではなく、聞くことが大事なのですね。
仏教を聴聞することによって、命の尊さが知らされるようです。
忙しい忙しいで日暮らししていますが、仏教に耳を傾け、自分自身が命の尊さをよく理解したうえで、いじめる人に接することが大切なのかもしれません。

いじめる側の問題・存在意義(3)

Posted by きりり On 6月 - 5 - 2011

人間の存在意義、命の尊さがわからなければ、人間を人間と扱わないことにまで発展しかねません。

人を虫けらと同じように感じてしまうからです。実際に猟奇殺人を犯した人が、人もゴキブリも同じ、と語っていたことがあります。

虫をもてあそぶように、人の命ももてあそんでしまうのです。

人の命の尊さ、人生の目的について、親鸞会では詳しく、1から教えていました。

特に教育者は、浄土真宗で教えられている命の意味に耳を傾けることが大事だと思います。

自分自身が命の尊さを知り、感じていなければ、他人にも教えることはできませんから。

いじめる側の問題・存在意義(2)

Posted by きりり On 5月 - 1 - 2011
いじめる人は、自分の存在意義があいまいで、不安定なのかもしれません。

その存在意義について、以前、親鸞会という集まりに通っている友達から聞いた話をもとに書いていきたいと思います。

存在意義、人生の目的ともいいますね。

なんのために生うまれてきたのか

なんのために生きているのか

くるしいことがあってもなぜ生きていかねばならないのか

これが人生の目的ということです。

目的が明確にならないと何事にも力が入りません。

まして、人生に目的が見いだせなかったら、心は不安定になってしまうでしょう。

いじめる側の問題・存在意義(1)

Posted by きりり On 1月 - 27 - 2011

いじめる人は、自分の存在意義があいまいで、不安定なのかもしれません。

ちょっと突っ込んだ内容になりますが、その存在意義について、以前、親鸞会という伝統的な仏教の内容を分かりやすく教えてくれる集まりに通っている友達から聞いた話をもとに書いていきたいと思います。

存在意義、人生の目的ともいいますね。

なんのために生きているのかということです。

これが大地のようにしっかりと胸にあれば、自分の人生に根拠を持ち、相手を尊重する心も出てくるでしょう。

いじめ 自己肯定感

Posted by きりり On 8月 - 6 - 2010

いじめの問題について書いています。

今日は、いじめる側にスポットをあててみましょう。

いじめる人は、何かイライラしていたり、
不安を覆い隠している場合が多いとも言われます。

その根底には、自己肯定感の低さがあるのでは
ないでしょうか?

自分の存在意義が見出せない。
そこから、自分が上にたつことによって、
存在意義を見出そうとする、
そのような心。

小さいころから上手に甘やかすことによって
自己肯定感が高まるといわれますが、
ある程度の年齢になってからでも、
あなたのことを大切に思っている
あなたのことを見ているよ
というメッセージが大事なのではないでしょうか?

人間の存在意義
言葉を変えれば人生の目的ですが、
そのことを伝統的な仏教をそのまま伝えてくれる
親鸞会という集まりでは分かりやすく話がされて
いるようです。

ある高校で永年、教えてきた先生からのご意見を頂戴しました。いじめの問題が起きたとき、どのように解決したのか、紹介したいと思います。

以下は、その先生からのお話です。

 

戦後、宗教と名のつくものはすべて公教育の場から消し去られました。

また団塊といわれる世代の教員の中には、共産主義の洗礼を受けた人たちが多く、教育の根底に、宗教的なものを疎んじ、唯物的で、社会への貢献を至上とする思想が入ってきました。

人間としての成熟より、進学に必要な知識を身につけることが目的化し、教育の根底が、どんどん空洞化しているような気がするんです。
その一例として、最近、「恩」を読めない生徒が増えています。

これは決して知力の問題ではなく、子供たちが「恩」という字を目にする機会が減ったことによるらしいのです。

確かに今、学校で、「恩」は見掛けぬ言葉となりました。

仏教では、

「恩を知らざるものは畜生よりも甚だし」

と経典にあるとおり、恩を知ることは、人間として最も大切なことと教えられます。

そういう教育は昔の日本にはあっても、今はありません。

いじめの問題に関してですが、やってはいけない、とは言えても、『それは悪なのだ』と断言できる教員や、保護者が極めて少ない現実があります。

まして悪因悪果、自因自果、自分の人生は自らの種まきでつくっていくのだと言える人は皆無に等しいと思います。

以前、受け持った高一のクラスでもいじめが起きました。

対象となったのは、ずばぬけて学力の高い女生徒で、彼女自身、周囲にうんざりしていたことから事件が起きました。

女子全員が彼女を徹底的に無視し始めたのです。

担任には分からぬよう自然にふるまってはいたのですが、私も教室の空気の変化に気づき、教室にいじめの問題が起きていると知りました。

この時は、女子全員を一人一人呼び出し、放課後に話をしました。

最初は、『皆仲良くやっています』などと言うのですが、『何もないわけないやろ。教室の空気が前と全然違うやろが!』と一喝すると、ポツリポツリ事情を話してくれました。

生徒たちが言うには、「あの子は私らを見下しているみたいだ」「皆と同じことせーへんかったら、私もいじめられる」と。

とにかく彼女たちの言い分をひととおり聞いたあと、できる限り善因善果、悪因悪果、自因自果と、因果の道理の話をしました。

善人づらはしたくないと、さもかっこよさそうに言う生徒もいましたが、『形をまねてるだけでも善は善。やらねば結果は絶対あらわれない』と自信を持って話をすると、スッキリした表情になったのが、今でも鮮やかに目に浮かびます。

昔から教えられていた仏教の教えを学ぶ機会が多かったから言えた言葉だったと思います。

いじめられていた本人にも同じ話をしたところ、一年の終わりごろには、すっかりクラスに溶け込み、放課後、彼女がクラスメートとともに、勉強している光景が見られるようになって、いじめの問題も解決しました。

善を勧め、悪を戒める。

教師ならだれでも指導することですが、問題はそれを、どれだけの信念で子供たちに断言できるかです。

善悪を断言できる仏教のようなバックボーンを学校側が排除してきたそのつけが、今の教育現場に現れていると思うんです。

 

貴重なお話をいただきました。この先生は、親鸞会という団体で浄土真宗の教えを永く学んでいるそうで、親鸞聖人に詳しい方でした。

いじめ問題に教師からの提言

Posted by きりり On 10月 - 30 - 2009

昭和28年から38年間、教鞭を執り。退職前の2年間は、校長を務めた方から貴重なご意見をいただきました。

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子供のいじめ問題による自殺が大きな社会問題になっています。

新聞・雑誌・テレビなどが、特集で大きく取り上げ、必死の説得を試みたこともありました。

「生きていればいいことがあると信じて」

「いじめるほうが悪い。だから死んではいけない」

「勇気を出して」

どれも強く生きよと訴えるメッセージですが、どれほど子供たちの心に届いているものでしょうか。

かつて、私が担任したクラスにもいじめがありましたが、早急な対処を心がけていました。

一例ですが、一人の子をクラス全員が無視したり、トイレに閉じ込めて出られなくしたことがありました。

そのいじめが発覚した時はすぐに、クラス全員を集めて一時間ほど注意をしました。

そのあとで、いじめられた子供の家庭を訪問し、保護者と本人を交えて徹底的に話を聞き本音で語り合いました。

このように教師が対処して、問題を解決できるものも多いでしょう。

しかし、どんな場合でも、これだけは子供に伝えねばならないことがあります。

それは、どれだけ苦しくとも、生きねばならぬ理由です。

これがハッキリしていれば、たとえいじめられても、自信と勇気を持って生きていけるに違いありません。

ところが、その答えを示すべき大人もまた、生きる意味が分からず苦しんでいます。

論点こそ違いますが、高校生の履修問題で校長の自殺が相次いだことがありました。

苦しければ死んでもいい、という考えは、自殺する子供と本質的には変わらないでしょう。

教職員の自殺が少なくないのが現実であり、大人も子供も、なぜ自殺してはいけないのか、その解答を知らないのです。

苦しいこと、つらいこと、大変なことを乗り越えてまで生きる意味は何か、この答えを知らない教師に指導される子供は悲劇です。

子供たちに「なぜ自殺はいけないか」を教えることは、換言すれば、「なぜ苦しくとも生きねばならぬのか」を教えることでしょう。

いじめ問題で、命の尊さが問われている今、生きる意味を徹底して教え伝える、根本的な取り組みが急務と思わずにおれません。

いじめをする人にも2パターン

Posted by きりり On 9月 - 30 - 2009

いじめの問題について考えています。
いじめには、単純に、いじめる側といじめられる側とがあります。しかも、一人が大勢をいじめる、ということはありません。大勢が一人(または少数)をいじめます。
いじめは良くないことだと教えられていますから、いじめている側の人も、それが「悪いこと」と一応は知っているでしょう。しかし、それでもいじめるのは、「悪いこと」と知っている以上に、いじめを実行するだけの理由や動機があるから、そのような行為に走ります。
いじめの問題が身近にあって、それに向き合うとき、まず大切なのは、実態を正確に把握することでしょう。
いじめの事実を把握したら、いじめている側の人たちに、いじめられている人がどんなにつらい思いをし、いかに傷ついたか、また、自分が同じ立場に立ったら、どういう気持ちになるか、よく考えさせ、反省を求めることが必要です。
いじめている側にも、大きく2つのパターンが考えられます。
一つは、軽い気持ちでやった場合。みんながいじめているから、自分も面白がって、遊びのつもりでいじめた、というパターンです。この場合は、相手の気持ちもわからずにやっていることが多く、いじめを受けた人の気持ちを知り、深く反省します。注意と、相手への謝罪で良いでしょう。
もう一つのパターンは、相手が傷ついているとわかって、わざとやっている場合です。いじめの事実を認めても、ふてくされ、反省もなく、いじめも悪質な場合は、実は、いじめている本人も、どこか別のところで被害を受けている可能性を疑った方が良いでしょう。いじめの問題に向き合い、何とか解決しようと思って、一方的に、いじめている人を責めたり、叱りつけたりすることは、反って問題を複雑化させることになりかねません。冷静に客観的事実を正確に把握して、手順をふんで事に対処する必要があります。